2009年06月26日

「私は貝になりたい」を観た

妻と一緒に久々に映画を観た。「私は貝になりたい」である。迫真の演技もあり、胸にグッとくるシーンもあった。とても手応えのある映画に間違いはなかった。そして重要なメッセージをも受け取る事が出来た。

突然だが、私はこの映画を一貫して貫く価値観は「現実を単純に肯定する恐ろしさ」だと感じた。

間違いなく、主人公は理不尽な理由で絞首刑にさせられたのである。まったくいわれのない不当判決であり、刑の執行に当たる理由や根拠も、不明瞭極まりないものだったはずだ。それに主人公には、生きなくてはならない理由があった。妻がいて、愛すべき子どもがいた。家族の為に早く(巣鴨を出て)家に帰らねばならない理由があった。不当な拘置・処刑を受ける入れられる理由なんてどこにもなく、早く家族の為に働かなくてはならない立場であったから。そもそも捕虜を殺してはいないのだから。主人公は明らかに「貧乏くじ」を引かされたのであった。

しかし、自分が理不尽な目(絞首刑)にあうのは「貧乏だったから」「お金持ちに生まれなかった」せいだと主人公は途中で結論をつけている。

「もし、生まれ変われるとしたらお金持ちのところに生まれたい」とは、絞首刑執行の前夜、「もし次に生まれ変われるならば、何になりたいですか?」という僧侶の問いに対しての答えである。(ちなみに、「私は貝になりたい」という最終的な主人公の結論も、結局は同義と考える。貝になれば、理不尽な現実に関わらなくて済むというのだから)

この答えは現実を否定しているようで、実際は否定をしていない。お金持ちに生まれ変わる事が出来たら「自分は」理不尽な目に逢わなくて済む、というのだ。むしろこの理不尽な現実を受け入れている。

では、悪いのは「生まれた処」なのだろうか。そして、自分さえ良ければいいのだろうか。

実は途中で、短いが、非常に鋭く闇を切り裂くようなセリフがあった。主人公と同じ戦犯死刑囚(ちなみにスマップの草薙くん演じていた!)の方が放ったセリフ(主人公の「どういったこと(罪)をなされたのですか?」という問いに対してのセリフ)だ。

「嫌な時代に生まれてしまいました。嫌な時代に生まれたから、嫌な事をしなければなりませんでした」

私はここに現実に対する「否定」をみるのです。

当時の(戦前の)価値観に対する強烈な批判です。自分の意思はあり「殺したくはなかった」のに、「殺さねばならなかった」という事実、そして後悔。自分がこのような目にあうのは「時代」のせいだと規定しているかのようです。

私はもう一度問わねばなりません。悪いのは「生まれた処」でありましょうか。違うと思うのです。その時代の「価値観」ではないかと思うのです。悪いのは「社会がそうだから」「みんなが言っているから」等という理由で簡単にまかり通る「理不尽な価値観」ではないでしょうか。

男も女も選べなかった。姿や顔や身長、そして体形も選べなかった。生まれる「国」も選べず、生まれる「時代」も選べなかった。気がつけばそうだった、いつの間にかそうだった、というのが「私」ではないでしょうか。

そしてそれは、「私だけではない」のではないでしょうか。

例えば、遠い「アフリカ」という処に生まれた人達も、そうではないでしょうか。現在大変な混乱の中にあると言われる「イスラム」の国生まれた人達も、そうではないでしょうか。みんな「なりたくてなった姿ではない」のではないでしょうか。だから、「人を軽々しく、軽んじてはならない」(差別の否定)し、「人を簡単に傷つけたり、殺めてはならない」(暴力・殺人・戦争の否定)と思うのです。

悪いのは「生まれた処」ではなく、その時代・社会に横行し、人を狂わしていく「理不尽な価値観」であり、そしてその理不尽な価値観を簡単に受け入れてしまう「私達」ではないでしょうか。

詩人・石垣 りんは、戦前出征する弟と二人で挨拶に行った時叔母が「お前、決死隊は前に出ろ、なんて言われても、ハイ、なんて、真っ先に出るのではないど」と言われた言葉を、戦後何度も反芻し、「私は権力とか常識のとりこになり、そういう真実なる言葉を、いつも持ち得ないで生きているのではないか?と時々心配しています」と述べています。

私は以前、大切にしなければならないものを失った経験があります。大切なものは何か?振り回されてはいけないものは何か?許してはいけないものは何か?見失ってはいけないものは何か?

私はいつの間にか、「理不尽なものに」狂わされてはいないだろうか?と。


橘 孝昭(宇土市・正栄寺)  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.40-2008.12.18