2009年07月31日
「自分」について考えよう
サルと人間との大きな違いは、パンツを穿くか穿かないかだという人がいる。つまり裸でいることを恥ずかしいと感じる(心・欲望をコントロールできる)か、恥ずかしいと感じない(心・欲望のまま)かの違いらしい。
その昔、ヨーロッパにおいて初めて地図ができた時、真っ先に起こったのが戦争だったそうである。それまでは、城の最上階から四方に見渡せる範囲がその城主の領地であるとして、もめる問題はなかったそうだが、それ以降は見えてなかった土地の奪い合いになったという。現代の欲望渦巻く利権争いみたいなもので、既に人間の形をしたサルが多かったのである。
①平和にもいろいろある
世界平和があらゆる所で叫ばれ、平和運動も行われているが、いったい「平和」ってなんなんだろうか。先のイラク戦争を、アメリカのブッシュ大統領は、「世界の平和と正義の為の戦いだ」と言って開戦し、イラクのフセイン大統領を、捕まえることこそが世界の平和だと考えていた。国家と国家が武力という手段で、合法的に多くの人を殺しあう「戦争」を、起こすということのみで、世界の平和が生まれると主張したのである。一方で、そんな戦争に反対を唱える人たちも世界中で反戦運動を起こしていた。その人たちは、戦争では平和にはなり得ないという考えなのである。ブッシュの平和もフセインの平和も、同じように、「平和」といいながら、その考えや行動から目指すべき「平和」は、相反している。
②ブッシュがフセインの誕生日を祝えるか?
四月八日は、お釈迦さんの誕生日であり、花祭りとしてお祝いをする。同じように人間には必ず誕生日があり、周りの人達からお祝いされ、命の尊さを再認識する。しかしそれは関係のある親しい人同士だけでのことであり、その範囲は狭い。一年三六五日毎日誰かが誕生日であるであろうが、私に関係ない人の日は祝う気持ちを持つことはない。そこでだ、もし、知らない人のことでも、「今日が誕生日なんだとお祝いする気持ちを、持てるようになったら」、ブッシュが「フセイン、誕生日おめでとう」と思えるようなったら、国が違うからといって、お互いを知らない者同士が、憎んでいるふりをして殺しあう戦争なんて、起こらないはずだ。
③「自分」をどこまで広げられるか
自分の親しい関係とは、どこまでをいうのだろうか。私がいて、家族があり、親戚があり、友達があり、会社、学校、地域住民があり、都道府県、国とその範囲は広まるが、本心から喜怒哀楽を感じる自分の範囲といえば、友達ぐらいまでであろう。環境問題でも同じであり、ゴミは我が家の敷地内では綺麗にするが、一歩外に出て、自分のものではないという意識の働く公道や公共の建物ではゴミを拾ったりすることはなかなかできない。このように自分の範囲とは、たいていが友達までであり、自分のものとは、我が家までであり、それ以外はなかなか自分事とは思えない。しかし、もし自分を広げられて、人類みな兄弟のように、世界の人々まで広げられ、自分のものとは、地球全てのものと思え、地球で起こっていることは、私が起こしていることなんだと思えるようになったなら、毎日が誕生日って祝えるだろうし、そこにのみ究極の平和が成り立つのではないのか。
④理想と現実のはざまでーサルから人間へー
究極の理想を掲げながら、簡単にそうできない自分(サル)という現実がある。しかし、パンツを穿いた人間に成るその道は、困難な道ではあるが、成りえると、今、私が「想像(イマジン)する」ことからしか始まらないと思っている。それが、自分が変われる第一歩であり、世界を変える一歩でもあるから。
速水昭隆(京都府・平安高校教諭)
その昔、ヨーロッパにおいて初めて地図ができた時、真っ先に起こったのが戦争だったそうである。それまでは、城の最上階から四方に見渡せる範囲がその城主の領地であるとして、もめる問題はなかったそうだが、それ以降は見えてなかった土地の奪い合いになったという。現代の欲望渦巻く利権争いみたいなもので、既に人間の形をしたサルが多かったのである。
①平和にもいろいろある
世界平和があらゆる所で叫ばれ、平和運動も行われているが、いったい「平和」ってなんなんだろうか。先のイラク戦争を、アメリカのブッシュ大統領は、「世界の平和と正義の為の戦いだ」と言って開戦し、イラクのフセイン大統領を、捕まえることこそが世界の平和だと考えていた。国家と国家が武力という手段で、合法的に多くの人を殺しあう「戦争」を、起こすということのみで、世界の平和が生まれると主張したのである。一方で、そんな戦争に反対を唱える人たちも世界中で反戦運動を起こしていた。その人たちは、戦争では平和にはなり得ないという考えなのである。ブッシュの平和もフセインの平和も、同じように、「平和」といいながら、その考えや行動から目指すべき「平和」は、相反している。
②ブッシュがフセインの誕生日を祝えるか?
四月八日は、お釈迦さんの誕生日であり、花祭りとしてお祝いをする。同じように人間には必ず誕生日があり、周りの人達からお祝いされ、命の尊さを再認識する。しかしそれは関係のある親しい人同士だけでのことであり、その範囲は狭い。一年三六五日毎日誰かが誕生日であるであろうが、私に関係ない人の日は祝う気持ちを持つことはない。そこでだ、もし、知らない人のことでも、「今日が誕生日なんだとお祝いする気持ちを、持てるようになったら」、ブッシュが「フセイン、誕生日おめでとう」と思えるようなったら、国が違うからといって、お互いを知らない者同士が、憎んでいるふりをして殺しあう戦争なんて、起こらないはずだ。
③「自分」をどこまで広げられるか
自分の親しい関係とは、どこまでをいうのだろうか。私がいて、家族があり、親戚があり、友達があり、会社、学校、地域住民があり、都道府県、国とその範囲は広まるが、本心から喜怒哀楽を感じる自分の範囲といえば、友達ぐらいまでであろう。環境問題でも同じであり、ゴミは我が家の敷地内では綺麗にするが、一歩外に出て、自分のものではないという意識の働く公道や公共の建物ではゴミを拾ったりすることはなかなかできない。このように自分の範囲とは、たいていが友達までであり、自分のものとは、我が家までであり、それ以外はなかなか自分事とは思えない。しかし、もし自分を広げられて、人類みな兄弟のように、世界の人々まで広げられ、自分のものとは、地球全てのものと思え、地球で起こっていることは、私が起こしていることなんだと思えるようになったなら、毎日が誕生日って祝えるだろうし、そこにのみ究極の平和が成り立つのではないのか。
④理想と現実のはざまでーサルから人間へー
究極の理想を掲げながら、簡単にそうできない自分(サル)という現実がある。しかし、パンツを穿いた人間に成るその道は、困難な道ではあるが、成りえると、今、私が「想像(イマジン)する」ことからしか始まらないと思っている。それが、自分が変われる第一歩であり、世界を変える一歩でもあるから。
速水昭隆(京都府・平安高校教諭)
