2009年07月19日

僕がオジさんになったら

 僕は今二十九才。もう三十路の大台も間近で、ギリッギリの青年です。結婚はまだしていません。え?していないんじゃなくて、できてないんでしょって?

まあまあ、そんなことは置いといて、ここでひとつ考えてみてほしいことがあります。それは、私たちがおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんと呼ばれる年齢になったとき、私たちの周りにいる恋人や友人もしくは私たちの子どもが戦争に連れて行かれ、死んでしまうような世の中になってもいいのかということについてです。そんなことにはなるわけないよ!と思っているあなたに僕は訴えます。

悲しいことに今の日本の大人たちは、これまでこの国は戦争を絶対にしない国ですと世界中にむかって約束していた憲法を変えて、戦争ができる国、大事な人が戦争で殺されても文句がいえない国を再び作ろうとしています。

想像してください。僕たちの大事な人が病気でも、交通事故でもなく、国の偉い人とされている大人たちが勝手に決める戦争で死んでしまうことを。行きたくないのに行かされて、死にたくないのに殺される。その上、殺したくないのに人を殺さなければならない国になってしまうということを。

私たちは、将来のこの国を、悲しみがあふれて、街中で誰かがいつも泣いているような国にしてもいいのでしょうか。

僕は絶対イヤです。僕がおじさんになっても、人殺しを良いことだとしてしまう戦争をする国にはしたくありません。きっと皆さんもそうでしょう。

だけど、現実的な話としてそのような悲惨な状況はもう目の前にあるといわなければなりません。そして、大人たちが戦争を始めるときには、いつも、「平和のために、国を守るために武力を使うこと、すなわち戦争が必要だ。」といいます。だから、あの有名な喜劇王チャップリンは、映画『独裁者』のなかで第二次世界大戦中のナチスドイツや大日本帝国などの、国の命令に逆らうことが絶対に許されなかった国々を揶揄して、「人は一人を殺せば殺人犯として犯罪者になる。しかし、ひとりが千人を殺せば必ず英雄になれるのだ。」といっています。

人が人を殺して英雄になる。そんな社会にしていくのは誰でしょうか。実はそんな社会を作り、支えていくのは私たち一人ひとりなのです。だって、人が人を殺したことをほめる人が存在しなければ、英雄になることはできないはずです。でも、それがすばらしいことなんだと思ってしまう人たちがたくさんになってしまうから、人を殺した人が殺人犯とならずに、英雄になっちゃう。みんな=わたしがいつの間にか作ってしまっている、だから余計に恐ろしい社会ですよね。

では、どうすればそのような恐ろしい社会になることを防げるのでしょうか。ミスチルの桜井さんは『タガタメ』という曲のなかで(そうそう、あのカップヌードルのCMで使われている、あの曲です)、「子どもらを被害者に、加害者にもせずに、この街で暮らすため、まず何をすべきだろう」と謳っています。戦争を良しとしない人間がここにもいて、何か始めなきゃと考えてくれていることに勇気付けられます。

ここで謳われているように、恐ろしい社会になることを防ぐためには、私たち一人ひとりが戦争なんてイヤだ!と本気で思い、どうすれば防げるかを真剣に考え始めなければならないのです。そのためには、まず新聞を読みましょう。ニュースを見ましょう。これまで興味を持っていなかったことについての話も聞いてみましょう。そして何よりも、大切な人を本当に大切にするにはどうしたらいいか考えてみましょう。

僕たちにはあまり時間がないようです。日本が戦争に負けてから六十年過ぎた今年、この国を戦争ができる国にしようとする動きが露骨に現れてきます。一人ひとりの力は小さいけど、一人ひとりがいないとなにも始まりません。

僕に何ができるか。一緒に考えて見ましょう。そして、小さな一歩でもいい。一緒に歩き始めましょう。

僕がおじさんになったら、戦争をしたい大人がいなくなって、戦争はダメだといえる人間がたくさんいることを願って、この文章をあなたにささげます。


「幸福な時代というものは、ぐっすりと眠った夜のあとに朝がやってくるというような具合に簡単にはやってこないのだ。」(ベルトルト・ブレヒト「『ガリレイの生涯』の覚え書」)

  宇治和貴(熊本市・広福寺)  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.10-2005.01.20

2009年07月18日

自分の「正しさ」に無自覚だと

先日、本を読んでいましたら、「正」の漢字の成り立ちについてこう書いてありました。ます「一」と「止」とに分けられる。「一」は古くは壁で囲まれた集落を意味していた部分が変化したものである。「止」は足跡が二つ並んだ形で、そこから派生して「進む」事を指す。つまり集落に向かい人が進んでいく様であり、同時に人がある集落に対して戦争をしかける、という意味がある。その「正」が「正しい」という意味になっているのは、勝った方が正当性を主張するから、というものです。

色々な学説もあるでしょうが、改めて今に続く歴史を振り返って見なければと思いました。なるほど私たちは無批判に自分を「正しい」と思っているところはないでしょうか。私たちの「正しさ」とはどういう理由でそれを「正しい」としているのでしょうか?

小さい頃教えられた倫理・道徳でしょうか。法律に触れない事でしょうか。国家を含めて大部分の人は何らかの組織に属していますから、その組織の維持でしょうか。他にも、自らの主義・主張等々、時代や環境・立場が違えばそれぞれの「正しさ」の根拠があるでしょう。しかしよくみていくとさまざまなそれらの根底に共通するのは、それが人の幸せの為になる、とされている事の様に思います。

では、人間の「幸せ」とは。今の世の中の流れにおいては、おおよそ中世のイタリアに端を発するものの考えが主流になっています。それまで神を恐れていた人間が、その束縛から解放され、自由に、快適に生きていく事を主眼としたものです。そして、そこからより便利に、より無駄なく、より豊かになろうと科学・経済・文化を繁栄させてきました。

しかし、今、私たちの「幸せ」、「正しさ」を見直す時がきているののではないでしょうか。人間が、我が国が、と豊かさを求め科学技術を発達させるあまり、環境破壊が進んできているのは周知のことです。もちろん環境の破壊など誰も望んではいません。しかしそうなったのは正しくあろうとした、つまり「幸せ」とされるものをどこまでも求めた結果です。言い換えれば環境破壊は私たちが望んだ結果とも言えます。

戦争も同じではないでしょうか。「幸せ」とされるものを求めた結果、人と人が争いを始めます。双方自分たちが「幸せ」になる為の「正しい」事をしているつもりだからです。しかし、「正しい」人間同士がぶつかり合った時にどうなるのか、私たちはよく知っています。お互い自分に正義があるのですから、お互いそれぞれにとっては「正しい」争いを始めます。しかし、はたから見ると、いつもどちらも自分の事しか考えていません。戦争も、やはり私たちが「幸せ」とされるものを求め、正しくあろうとした結果、つまり無意識にせよ私たちが望んでそうなった結果なのである。

徹底して、私たちは無批判に自分の「正しさ」を信じすぎているのではないでしょうか。束縛からの解放を目的として始まった文化に生きる私たちは、いつの間にか「幸せ」の追求に束縛されてしまってはいないでしょうか。

自分を見つめなおしたいです。自分が「幸せ」を求めている姿、「正しい」と思っている姿は、実はどんな姿なのか。今考えている「幸せ」は本当の「幸せ」なのか。

今、立ち止まって考えてみたいと思っています。


   倉岡依之(熊本市・玄高寺)
  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.10-2005.01.20