2009年07月07日

戦死者は何を望んでおられるだろうか?

戦死者は何を望んでおられるだろうか?   川田晃映(宇城市・正善寺)

今年も暑い夏を迎えました。七月盆を終えられたご家庭も、八月盆を迎えられるご家庭もありましょう。このお盆の行事は、遠くお釈迦さまの頃からの行事で、雨季が終わり、勉学の反省会が行われた際の仏弟子、目連尊者のエピソードが元になっています。

ではなぜ、雨の時期は住まいに籠もって勉学に励まれたのか。それは、はい出した虫を踏み殺してしまうからそれを避けたと伝えられています。お釈迦さまや仏弟子方はむやみに生き物を殺さないよう努められたのです。その願いはもちろん人間にも及びます。お釈迦さまは「すべての者は暴力におびえる。すべての生きものにとって生命は愛しい。おの(れ)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と諭されています。

お釈迦さまのご説法をまとめたお経の一つ『仏説無量寿経』にも、「兵戈無用」の言葉があります。そこには兵隊も武器も用いることが無い平和の世界が願われてあります。この言葉は単なる理想論でなく、目指すべき方向なり目標を表していると考えます。

ではそのような仏法を旗印にする教団が、平和を希求し続けてきたでしょうか。そうではなかった時がありました。五十九年前まで、つまり太平洋戦争の際、我々本願寺教団は残念ながら時代の流れに迎合し、なんと戦時国家に不都合な経典の文字を消し、武器に作り替えてもらうために金属の仏具を提出し、「滅私奉公は報恩行、戦死は菩薩行」と教化して、信者を戦地に送ってしまったのでした。お釈迦さまの教えに背き、戦争を賛美したのです。とても悲しいことです。その反省が、私たちの非戦平和の活動の出発点です。

太平洋戦争では日本で三百万人、そしてアジアで二千万人が亡くなりました。日本は被害と加害の両方の悲しみを抱えています。だからこそ日本国憲法の第9条「戦争の放棄」を大事にしてきたのでしょう。「お国のために」という美辞の下で民衆は兵力という一道具にさせられる。人殺しの罪が戦場では誉れになり、殺さないことが罪になる。人間性を失わせるそんな戦場の狂気の様を知ったからこそ兵士は「戦争は御免だ」と戦争の放棄を続けてきたのではないか。家を壊され大切な人を奪われ、家族は悲しみに沈み、新たな怨み憎しみに苦しめられる。

だからこそ家族は「二度と戦争はあってはならない」と戦争の放棄を選んできたのではないか。そう、恐るべき戦争の本質、罪業性に触れた体験が「戦争の放棄」を支えてきたと思います。そして、戦争で亡くなった方々に対して「もう戦争はしません」と誓ってきたのです。今私たちも「戦争の放棄」の大切さを確認し合いたいと思います。

さて、アメリカでの大規模テロ以降、テロ撲滅のために戦争が容認されているように見受けられます。そしてアメリカに呼応するように日本政府は戦争を支持した上で、人道復興支援と称して自衛隊を派遣し、国民を置き去りにしたまま多国籍軍に加えました。法律の面でも、有事法案が決まり、憲法第9条を改めよとの声も上がり始めています。日本が戦争に出向く国、戦争がしやすい国へ向かっていると危惧します。

私は戦争で事態を解決すること自体に問題があると思っています。テロは許すことのできない暴力ですが、それを防ぐための戦争がまた暴力そのものになりました。そして報復の連鎖も生み出しました。

「壊して復興」とはなんと驕り高ぶった言葉でしょうか、それで住民の悲しみは戻せますか。巻き添えになった人は生き返りますか。あまりにもむごい。戦争は悲しみしかもたらしません。戦争が「罪悪」であることをごまかしてはならない。「正義」の名の下に、「やむを得ない」と言ってはならないと思います。

今からでも遅くない、「兵戈無用」という軍隊も兵器も用いない平和の構築が、そして戦争の体験の深い反省に基づく「戦争の放棄」による平和の構築が日本から始められることを切望します。先の大戦で加害と被害両面の悲しみを知った日本だからこそ、戦争の当事者になってはならないし、今後も戦争を支持するのではなく止めるために世界中で努力すべきだと考えます。過ちを繰り返さないために歴史を学びましょう。戦争に殺された方々の死を悼むが故に、戦争を止める行動を共に取りましょう。

八月十五日太平洋戦争終決の日を前にみんなで考えていただけませんか。合 掌  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.04-2004.07.20

2009年07月06日

トマトスープ  浅野智弘(熊本市・蓮台寺)

人は戦争をはじめるとき 命よりも大切なものがあるといいます。それは、主義や主張だったり 一部の人達の利益だったり 逃れられぬしがらみかもしれません。けれども、戦争をやめるときは 人命や治安よりも尊いものはない ということを言います。

人間の長い戦いの歴史の中で学んだことなのに また間違いが繰り返されています。

いまだに戦争の緊張がとけないイラク かの国ではほとんど毎日のように おおぜいの人が命を落としています。立ち止まってください

街行く人がなんとなく過ごした今日という日は 昨日死んでいった人達が 爆弾に吹き飛ばされ、銃に貫かれ 血を流し痛みに耐えながら あんなにも あんなにも 切なく生きたいと願った明日なのです。 戦争さえ、なければ。

あなたの年齢を3で割ってみてください。そうすると今の、だいたいの人生時間がわかるそうですよ。例えば、私はいま二十五歳だから 一日二十四時間で考えれば、朝の八時過ぎ。あなたは、いま人生の何時ごろを生きてますか?

あなたの年齢 ÷ 3 = 今、何時?

わたしたちは、一日がすぐに終わってしまうことを 嫌というほどよく知ってますから、その人生の一日の最後を想うと複雑な気分になりますね。少なくとも次の太陽が東の空に昇るころ、私たちは次の世代へといろいろなものを託していかなくてはなりません。しかし、戦いによって不当に亡くなっていった人たちが 途中で命を奪われることなく生きていくことが許されるならば いったい、どんな人生を歩むのでしょうか…。戦争で命を落とす人たちは 本当は生きていける時間を もっとたくさん残したままです。

私たちが怖いほど無関心でいられるのは ここには私たちを殺す兵士がいないからかもしれません。たった今すぐに 戦争で自分の命の危険にさらされることはないのですから。

だけどもしもあなたの家族が、親友が、恋人が、ただ、その場所に生活していたから殺されたり もしくは、捕らえられて酷い死を迎えたらどうでしょう あなたの大切な人が受けた苦しみ そして大切な人を奪われた悲しみ そんな極限の状態の中 あなたは我を失ってしまうかもしれません。憎しみは憎しみによって塗りかえられていきます。生きてきた人間の夢も喜びも悲しみも全部 全てを溶かし込んで 戦争という名前の、血に染まった真っ赤なトマトスープは 人の命を奪い続けていくのです。

傍観は参戦に同じ

この反戦運動を展開した当初、掲げたスローガンの一つです。何もしないということも 何かをしていることであるのを 忘れてはいけません。

この戦いを悲しいと感じるならば あなたはあなたにできる行動を ぜひ、今すぐにしましょう。

あなた自身があなたの声に耳を傾けられなくなったら それはとても寂しいことです。

この会報を受け取ることができるご縁のある方ばかりではありません。

ですから 力による悲劇を 戦いの虚しさを 命のはかなさと大切さを どうぞ親しいかたへ話してあげてください。

あなたの行動は、周りの方々を そして世界中の人たちを救う 一歩となるでしょう。私たちは、もっと知らねばならないのです。

殺してはいけない 殺させてはいけない

自分の命のともしび その存在をしっかりと心に捉えて 他の人々の命も全く同じだということをくれぐれも忘れてはいけません。  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.04-2004.07.20

2009年06月15日

騙された者の責任  藤岡崇史(熊本市・真行寺)

「騙されたとさえ言えば、一切の責任から解放され無条件で正義派になれるように勘違いしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。しかも、騙された者必ずしも正しくないことを指摘するだけに止まらず、私はさらに進んで『騙されるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである。『騙されていた』という一語の持つ便利な効果に溺れて、一切の責任から解放された気で居る多くの人々の安易きわまる態度を見る時、私は日本国民の将来に対して暗たんたる不安を感ぜざるを得ない。『騙されていた』と言って平気でいられる国民なら、恐らく今後も何度でも騙されるであろう。いや、現在でもすでに別の嘘によって騙され始めているに違いないのである。」

つい先日ある高僧から伊丹十三さんの父・伊丹万作さんが一九四六年に書かれたこの文章を教えていただいた。


この文章からもうすぐ六十年。我々日本人はどうやら「騙される」道の選択を決意したようである
  

Posted by 藤岡崇史 at 23:25Comments(0)TrackBack(0)Vol.04-2004.07.20