2009年07月05日

もうひとつの「冬ソナ」物語   遠山雅美(熊本市・廣徳寺)

韓国のドラマ『冬のソナタ』が、今、絶大な人気を博しています。

このドラマは、別の男性と婚約中のユジンと、恋愛中のミニョンが出会い、多くの人を傷つけると知りながら、抗しがたく惹かれあい、そこに育まれる愛情が、韓国の美しい自然を背景に、「純愛」として多くの人々を引きつけていると言われています。愛する者を引き止めようとする相手方の婚約者や恋人の執拗ともいえる妨害は、視聴者の反感をもかい、それがまた、二人の純愛をより高めるという効果をもたらしているようです。しかし、婚約者や恋人の心変わりに苦悩する側に立つならば、愛する者を奪った憎むべき不純な恋愛と、声を荒げたくなるのではないでしょうか?

私たちは常に、物事のあり様を、自分に都合のよい立場でしか見ようとしません。

米兵によるイラク人への虐待を、鬼畜の行いとする報道や世論の声を聞く時、行為そのものは絶対に許されるべきものではありせんが、屈辱的な姿のイラク人の傍らで笑う、あの写真の米兵たちが、本当に私たちとは生まれながらにして質を異にする「鬼畜」なのだろうか、という疑問が生じます。

戦争という緊張状態を離れた日常にあれば、彼らもきっと、私たちと同じどこにでもいる普通の人たちではないでしょうか。私たちは、自分を正義の側に置きたくて、世間が作り上げる絶対の悪を、何の疑問も感じることなく受け入れてしまいがちです。縁にふれれば、人をも殺しかねない私であることを棚に上げ、他人ばかりを責めています。そのことが、事実以上の悪人を作り上げていることにも、気づかないのです。「オウム信者」しかり、「北朝鮮」しかり…

そのような愚かしい私の姿を悲しみ、願いを起こして下さった阿弥陀仏の願いに応えるとは、どういうことなのでしょう。

「絶対に許せない!」…私がそう決め付けている、私の身近な人のことを、ほんの少し考えてみることから、まずは始めてみましょう。
  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.02-2004.06.20

2009年07月01日

「願い」   大菅真也(田浦町・正善寺)

私の無関心が
為政者の傲慢さを生み出しているならば
私は無関心でいることができません
その為政者の傲慢さが
人々に苦しみをもたらしているならば
私は沈黙することができません
そしてその苦しみが
多くの人に虚しさをもたらしているならば
私は行動せずにはいられないのです
どうかこの願いが
一人でも多くの人につなが􁶿ていきますように
そしてこの動きが波紋となり􁶫
多くの人に伝わ􁶿ていきますように・・・








私たちは今「戦争」というものを考えるときに、戦争に正しい戦争があるかやそれはどういう状況なのかという論議に目を奪われて、戦争が「いのち」を「もの」として扱うことによってしか成り立たないということに目を向けられなくなっているのではないでしょうか。


「戦争」を伝える情報は死者や負傷者の数、どの地域がどの勢力によって制圧されたとか、軍や政治のトップがどういう発言をしたかということがほとんどで、そこで苦しみを受けている住民や故郷から遠く引き離され、「殺し殺される」という戦地へと送られてしまった兵士たちの悲しみの声は、ほとんど伝えらません。


実はそういう情報の中で私たちは本当に大切なことを忘れてしまっていたのではないでしょうか。



それは、「いのち」が「もの」として扱われることの悲しさ、そして「いのち」を「数字」で表現しようとすることの愚かさや傲慢さです。


そういう情報の中では「数字」としてしか表れてこない「死者」というのは、実は学校で名前を呼び合った友達や、子供と一緒に遊んでいた親、そういう家族や友人との日々の中で、共に笑い共に泣きそして共に同じ日常を暮らしていた人間だったのであり、その「人間」が親しい人たちと引き離され、「いのち」を奪いとられ「死者」になったものなのです。


そういう「人間」の「死」は、一人の人の「いのち」が奪われると同時に、残された人の心に大きな空白感をもたらしたのですが、そういう人々の悲しみや苦しみ、残された人たちの空白感は決して「数字」では表せません。私たちはそのことをすっかり忘れていたのではないでしょうか。


「死者」は、今まで、そこで生きていた「人間」だったのです。


そしてそのことは、私たちと同じ日々の暮らしを営んでいた「人間」が、悲しみと苦しみの中で引き裂かれ、「死者」になることを強いられたことをも意味しているのです。


その「死」を「強いたもの」が何なのか。


それは私たちの「無関心」だったのかもしれません。



それは私たちの「沈黙」だったのかもしれません。


それは私たちの「仕方ない」という「諦め」だったのかもしれません。


そのことをもう一度考えなければならないのではないでしょうか。


私たちはもう一度、一人の人間が「いのち」を奪われるという悲しみや、友としての・親子としての・夫婦としての多くのつながりが引き裂かれるということ、そして残された人にもたらされた空白感というものを大事にして、そのことに心を寄せて、「戦争」を「いのちの尊厳」を損なうもの、「いのちの共感」を妨げるものとして考える必要があるのではないでしょうか。


今、私たちの本当に身近なところで、憲法改定や教育基本法改定、そして「多国籍軍への参加」など、まさに「戦争ができる国」に向けての大きな動きが起こっている中、もし私たちが「戦争」を嫌だと思うなら、そういう動きの中から何を学び、どのような道を見出し、どういう声をあげることができるのか、どういう歩みを進めていくことができるのかが問われています。


その問いかけへの真剣な答えとして、「いのち」が響きあうという世界に向けて、「戦争」が「いのちの共感」を妨げているということを見抜き、「戦争」を拒否していくという一歩を多くの方と共に歩み出したいと思います。


そして、今、「無関心や沈黙」の世界から解き放たれ、国土を荒らされ家族を奪われ、常にいのちの危険にさらされている人たちの悩み、そこにいる兵士たちの痛みと苦しみに心を寄せ、「つながる」という世界を取り戻したいと思います。

  

Posted by 藤岡崇史 at 00:00Comments(0)TrackBack(0)Vol.02-2004.06.20