2012年01月06日
ブータンの龍の話し 甲斐晃裕(熊本市・専念寺)
「みなさんは龍を見たことがありますか?」
先月訪日されたブータン国王夫妻が被災地、相馬市の小学校で子どもたちに語りかけられた龍の話に、心うたれました。
「龍は一人ひとりの心の中に住んでいて、経験を食べて成長します。いろいろな経験をした人の龍は大きく強くなる、みなさんもこころの中の龍を大切に育てていってください」という話です。心の中に住む龍とは何でしょうか。
人生は思い通りには行きません、望まないこと、大切なものを失うことも起こります。悲しみ苦悩しながら、私たちは本当に大切なものは何かを知るのです。経験を食べて成長する龍とは私たちの価値観、一生を貫く人生の物差しなのだと思います。
3.11の衝撃は私たちの人生観、価値観を根底から揺さぶりました。数百年おきに繰り返されてきた大地震と津波、天災そのものを無くすことは私たちにはできません。
一瞬のうちに瓦礫の廃墟となった町の映像を見たお年寄りが「あの時を思い出して身体がふるえた」と涙を拭いておられました。あの時とは66年前、昭和20年3月10日未明の東京大空襲のことです。
目の前に何枚もの資料写真があります。3.11をはるかに超える惨状、一晩に十万人が焼き殺されました。広島も長崎も名古屋も大阪も、そして熊本の市街地の惨劇も同様だったでしょう。民間人だけで40万人が犠牲になったのです。
今、地震・津波は天災で原発事故は人災だと言っています。この資料写真の惨状は、もちろん天災ではありません、究極の人災は戦争です。私たちは天災から逃れるすべを知りませんが、人災であるなら防げるはずです。
ブータンは仏教徒の国です。国旗の真ん中に描かれている白い龍は、仏教の慈しみと寛容の心を表しているそうです。若い国王夫妻の柔和な表情、謙虚なしぐさ、合掌する姿にそれを見る思いがしました。
「憎しみ、争い、奪い合う先にあるものは悲しみと虚しさだけである、赦し分かち合うところに安らぎと喜びがある」と仏陀は語りかけます。焼き尽くされた瓦礫のただ中に立ち尽くした人たちは、取り返しのつかない大変な犠牲をはらって戦争の恐ろしさ虚しさを知らされました。その人たちの心に宿った龍が「戦争放棄の誓い」を結実したのでしょう。
2011年も残り僅かとなりました。本当に大切なものは何か、見誤らないための龍は、私の中に育っているでしょうか。
新しい年は龍(辰)の年です。
先月訪日されたブータン国王夫妻が被災地、相馬市の小学校で子どもたちに語りかけられた龍の話に、心うたれました。
「龍は一人ひとりの心の中に住んでいて、経験を食べて成長します。いろいろな経験をした人の龍は大きく強くなる、みなさんもこころの中の龍を大切に育てていってください」という話です。心の中に住む龍とは何でしょうか。
人生は思い通りには行きません、望まないこと、大切なものを失うことも起こります。悲しみ苦悩しながら、私たちは本当に大切なものは何かを知るのです。経験を食べて成長する龍とは私たちの価値観、一生を貫く人生の物差しなのだと思います。
3.11の衝撃は私たちの人生観、価値観を根底から揺さぶりました。数百年おきに繰り返されてきた大地震と津波、天災そのものを無くすことは私たちにはできません。
一瞬のうちに瓦礫の廃墟となった町の映像を見たお年寄りが「あの時を思い出して身体がふるえた」と涙を拭いておられました。あの時とは66年前、昭和20年3月10日未明の東京大空襲のことです。
目の前に何枚もの資料写真があります。3.11をはるかに超える惨状、一晩に十万人が焼き殺されました。広島も長崎も名古屋も大阪も、そして熊本の市街地の惨劇も同様だったでしょう。民間人だけで40万人が犠牲になったのです。
今、地震・津波は天災で原発事故は人災だと言っています。この資料写真の惨状は、もちろん天災ではありません、究極の人災は戦争です。私たちは天災から逃れるすべを知りませんが、人災であるなら防げるはずです。
ブータンは仏教徒の国です。国旗の真ん中に描かれている白い龍は、仏教の慈しみと寛容の心を表しているそうです。若い国王夫妻の柔和な表情、謙虚なしぐさ、合掌する姿にそれを見る思いがしました。
「憎しみ、争い、奪い合う先にあるものは悲しみと虚しさだけである、赦し分かち合うところに安らぎと喜びがある」と仏陀は語りかけます。焼き尽くされた瓦礫のただ中に立ち尽くした人たちは、取り返しのつかない大変な犠牲をはらって戦争の恐ろしさ虚しさを知らされました。その人たちの心に宿った龍が「戦争放棄の誓い」を結実したのでしょう。
2011年も残り僅かとなりました。本当に大切なものは何か、見誤らないための龍は、私の中に育っているでしょうか。
新しい年は龍(辰)の年です。
2012年01月06日
いま、あなたの心に平和はありますか
ある人が「戦後日本の反戦運動は厭戦運動である」と指摘しています。先の戦争での悲惨な体験から「もう戦争はいやだ」と始まったのです。しかし、世界中の反戦運動が「殺されたり殺したりする戦争はいやだ」という思いから起こっています。
仏教の非戦はそれと違います。チベット仏教のダライラマ14世は「私たちの心に平和がなければ、世界に平和はない」と言っています。その活動は私の心に平和を生み出し、他の人の心に平和を生み出すものなのです。恐れや嫌悪からは平和は生まれません。
ベトナム仏教のティク・ナット・ハンは「アメリカ大統領に戦争反対の抗議の手紙を書くときは、ラブレターを書くように」と教えています。アメリカ大統領の心に平和が生まれるように手紙を書くべきなのです。そのことがそのまま、自分の心に平和を生んでいきます。
テーラワーダ仏教では「慈悲の瞑想」を教えています。「私は幸せでありますように」と始まり「私の親しい人々が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」、そしてつづけて「私の嫌いな人々も幸せでありますように」「私を嫌っている人々も幸せでありますように」最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、口にだして唱え、心に念じます。これは祈りではなく、この修行によって、心を静め、自我の執着から解放され、慈悲を生み出すのです。
これを借りて「平和の瞑想」を考えました。口にだして唱え、心に念じてもらえたらと思います。
私に平和がありますように
私の親しい人々に平和がありますように
生きとし生けるものに平和がありますように
私の嫌いな人々に平和がありますように
私を嫌っている人々に平和がありますように
生きとし生けるものに平和がありますように
外海卓也(熊本市・浄喜寺)
仏教の非戦はそれと違います。チベット仏教のダライラマ14世は「私たちの心に平和がなければ、世界に平和はない」と言っています。その活動は私の心に平和を生み出し、他の人の心に平和を生み出すものなのです。恐れや嫌悪からは平和は生まれません。
ベトナム仏教のティク・ナット・ハンは「アメリカ大統領に戦争反対の抗議の手紙を書くときは、ラブレターを書くように」と教えています。アメリカ大統領の心に平和が生まれるように手紙を書くべきなのです。そのことがそのまま、自分の心に平和を生んでいきます。
テーラワーダ仏教では「慈悲の瞑想」を教えています。「私は幸せでありますように」と始まり「私の親しい人々が幸せでありますように」「生きとし生けるものが幸せでありますように」、そしてつづけて「私の嫌いな人々も幸せでありますように」「私を嫌っている人々も幸せでありますように」最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、口にだして唱え、心に念じます。これは祈りではなく、この修行によって、心を静め、自我の執着から解放され、慈悲を生み出すのです。
これを借りて「平和の瞑想」を考えました。口にだして唱え、心に念じてもらえたらと思います。
私に平和がありますように
私の親しい人々に平和がありますように
生きとし生けるものに平和がありますように
私の嫌いな人々に平和がありますように
私を嫌っている人々に平和がありますように
生きとし生けるものに平和がありますように
外海卓也(熊本市・浄喜寺)
2011年09月29日
政治的平和と宗教の平和 岩崎智寧(広島県・西教寺)
「全てのものは暴力に脅えている。全ての生き物にとって生命は愛しい。(他人を)自分の身に引き当てて、殺してはならない。殺させてはならない。」(『ダンマパダ』130)
●仏教は非戦
これは、お釈迦さまの言葉です。自分がそうであるように、他人だって暴力は恐ろしいし、また自分の生命が愛しい。言い分はお互いに色々あるだろうけれども何はともあれ「殺さずに」「非暴力で」ということでしょう。この立場は「非戦」の立場、つまり戦争そのもの、それ自体が過ちであって、正しい戦争なんて成り立たないという、戦争自体を否定した「非戦」の立場だといっていいと思います。私は、これが戦争に対する仏教の基本的立場だと思っています。
またこれは、武力による国際紛争の解決を禁止した憲法第9条に通じる立場だとも思います。
しかし残念なことに、北朝鮮脅威論を広め、国民に不安を煽ることに成功した政府は、この6月、「備えあれば憂いなし」と言って先制攻撃を可能にする有事法案を成立させました。
●政治は切りすてる
「宗教と政治というものは、その宗教が普遍的原理に立つ宗教であるかぎり、政治とは、本質的にはまったく性格を異にするものである。宗教というものは、どこまでも個の立場、人間1人1人の立場に立つものであり、その人間のまことの在りようを問いつづけることによって、新しい人間成就、確かなる自立、その生命のまことの完結をめざすものである。それに対して、政治というものは、つねに全の立場、社会全体を問題とし、その社会の進歩向上をめざすものである。しかし政治は、個人を尊重するとはいいながらも、全体のためには、いつでも個を切りすててゆくのである。もとより宗教もまた、つねに社会全体を視野に入れているが、それはどこまでも、個の成長、その完結を通しての社会の向上を語るのである。」(信楽峻麿「親鸞思想と靖国神社」『宗教的人格権の確立』法蔵館)
上の文章に関して色々ご意見はあると思いますが、私は、政治とは、国家とは結局のところこういうものだと思います。1部の人間の決めた政策によって、どれほど多くの生命が切りすてられたことでしょうか。また、歴史は教えてくれます。戦争指導者はいつも「正義のため」だとか「世界平和のため」とか、あるいは宗教的に権威付けをして「聖戦」だとか、またある時は「守るため」だともいます。家族とか国民とか国益を不埒な敵から守るのだというのです。小泉首相は「国民の平和と安全を守る」ために「備えあれば憂いなし」と言っていますが、「守る」といっているけれども本当のところはどうなのか、実は「切りすて」と「侵略」ではないのか、歴史に学ぶことで見えてくることは多いと思います。
●備えがあっても
話は変わりますが、今年の春、お寺で放火が3回もあり、2度は消防が来る騒ぎとなりました。墓地が2度、庫裏(くり=住居部分)が1度燃えましたが、幸い大きな火事とはなりませんでした。放火したのは誰なのか、今度はいつ来るのかそれもとも来ないのか、どこに放火されるかも分からないという不安な日々を過ごしました。
ご近所にも迷惑がかかるといけないので、警備会社2社に屋外用の防火システムを見積もってもらいました。1社は1ヶ月2万円程度で見積もってきましたが、もう1社は全部で880万円もの見積もりを持ってきました。こちらとしても初めての経験なので、いったい2万円で大丈夫なのか、また880万円も必要なのか、どんな防火システムにすれば良いのかさっぱり分かりませんでした。
業者と色々相談していましたら、「費用対効果」という言葉を教えてもらいました。それは、「このくらいお金をかけると効果はこのくらいになる。」ということなのですが、「突き詰めて言えば、いくらお金をかけても限界があるということ」、つまり犯人が絶対燃やしてやるというつもりでガソリンをまけば、いくらお金をかけても意味をなさない、結局依頼主が「どの程度のところで納得するかということだ」という意味で使うのだそうです。確かにいくらお金をかけたって、最近のATM犯罪のようにブルドーザーで根こそぎ持っていくというような強硬手段に出られれば、何の意味もなさないですものね。
都会では、盗んだ人間が悪いのではなくて、取りやすいようなディスプレイをしている方が悪いそうです。さらに最近は、「取られないように」というよりはむしろ「ある程度取られることを前提に」商売をしているのだそうです。しかしそれでも田舎に行けば、監視カメラも警報装置もない無人の店に商品が並んでいて、お客が代金を箱の中に入れて勝手に持って帰るような仕組みが成り立っています。このことから考えてみると、「備え」も大切でしょうが、最後のところは「人間の心」なんだと思いませんか?
この放火騒ぎで私は、いくら「備え」をしても限界があるんだということと、結局大切なのは「人間の心」(を育てるということ)なんだということを学んだように思います。
●外からの「強制」ではなく内からの「めざめ」
「殺そうとしている人々を見るがいい。武器に頼ろうとするから恐怖が生じる。」(お釈迦さまの言葉『スッタニパータ』935)
「北風と太陽」という話をご存知でしょうか。
北風と太陽が競争して地上にいる人の上着を脱がそうとします。北風は、上着を吹き飛ばしてしまおうとビュービューと風を吹き付けましたが、強く吹き付ければ吹き付けるほど、脱がせるどころか逆効果になってしまって、その人は上着のボタンをしっかりとかけてしまいました。しかし太陽がぽかぽかと暖かい日差しを当てると、あっという間にその人は自分から上着をぬいでしまったという話です。
先にいいましたように私は、どれほど「備え」をしても「人間の心」の問題を抜きにしては何も解決しないと思います。私は、小泉首相の進める武力に基づく「備え」や「圧力」によって、北朝鮮が恐怖心を抱き、関係がどんどん悪化・緊張していると感じています。「信頼関係」を結ぶことの大切さを思うのであれば、「北風」のような「恐怖」を与える「武力」ではなく、「粘り強く対話を続けること」の方が大事なのはではないでしょうか。
また私は、あれほどフセインに忠誠を誓い、敬虔なイスラム教徒に見えたイラクの人々が、フセイン政権崩壊と同時に暴徒と化し、略奪を繰り返す姿を見て驚きました。権威や権力などで外側から押さえつけ強制しただけでは結局何も変わらない、粘り強い対話によって1人1人が内側からめざめて変わってゆくこと、そのことを通して誰1人切り捨てられることなく、社会全体が変わってゆくことの大切さを思います。気の遠くなるような話ですが、私は、これこそが仏教徒の非戦平和への取り組みだと思っています。
非戦平和を願う仏教徒の皆さん、有事法案が成立しても絶望してはいけません。たとえ1人でも、それが遥か遠い道のりであっても、対話を通じて、1人1人の心を大切にしながら、非戦平和の社会が実現してゆくよう、粘り強く取り組んでゆきましょう!
(この原稿は2006年に執筆されたものです)
●仏教は非戦
これは、お釈迦さまの言葉です。自分がそうであるように、他人だって暴力は恐ろしいし、また自分の生命が愛しい。言い分はお互いに色々あるだろうけれども何はともあれ「殺さずに」「非暴力で」ということでしょう。この立場は「非戦」の立場、つまり戦争そのもの、それ自体が過ちであって、正しい戦争なんて成り立たないという、戦争自体を否定した「非戦」の立場だといっていいと思います。私は、これが戦争に対する仏教の基本的立場だと思っています。
またこれは、武力による国際紛争の解決を禁止した憲法第9条に通じる立場だとも思います。
しかし残念なことに、北朝鮮脅威論を広め、国民に不安を煽ることに成功した政府は、この6月、「備えあれば憂いなし」と言って先制攻撃を可能にする有事法案を成立させました。
●政治は切りすてる
「宗教と政治というものは、その宗教が普遍的原理に立つ宗教であるかぎり、政治とは、本質的にはまったく性格を異にするものである。宗教というものは、どこまでも個の立場、人間1人1人の立場に立つものであり、その人間のまことの在りようを問いつづけることによって、新しい人間成就、確かなる自立、その生命のまことの完結をめざすものである。それに対して、政治というものは、つねに全の立場、社会全体を問題とし、その社会の進歩向上をめざすものである。しかし政治は、個人を尊重するとはいいながらも、全体のためには、いつでも個を切りすててゆくのである。もとより宗教もまた、つねに社会全体を視野に入れているが、それはどこまでも、個の成長、その完結を通しての社会の向上を語るのである。」(信楽峻麿「親鸞思想と靖国神社」『宗教的人格権の確立』法蔵館)
上の文章に関して色々ご意見はあると思いますが、私は、政治とは、国家とは結局のところこういうものだと思います。1部の人間の決めた政策によって、どれほど多くの生命が切りすてられたことでしょうか。また、歴史は教えてくれます。戦争指導者はいつも「正義のため」だとか「世界平和のため」とか、あるいは宗教的に権威付けをして「聖戦」だとか、またある時は「守るため」だともいます。家族とか国民とか国益を不埒な敵から守るのだというのです。小泉首相は「国民の平和と安全を守る」ために「備えあれば憂いなし」と言っていますが、「守る」といっているけれども本当のところはどうなのか、実は「切りすて」と「侵略」ではないのか、歴史に学ぶことで見えてくることは多いと思います。
●備えがあっても
話は変わりますが、今年の春、お寺で放火が3回もあり、2度は消防が来る騒ぎとなりました。墓地が2度、庫裏(くり=住居部分)が1度燃えましたが、幸い大きな火事とはなりませんでした。放火したのは誰なのか、今度はいつ来るのかそれもとも来ないのか、どこに放火されるかも分からないという不安な日々を過ごしました。
ご近所にも迷惑がかかるといけないので、警備会社2社に屋外用の防火システムを見積もってもらいました。1社は1ヶ月2万円程度で見積もってきましたが、もう1社は全部で880万円もの見積もりを持ってきました。こちらとしても初めての経験なので、いったい2万円で大丈夫なのか、また880万円も必要なのか、どんな防火システムにすれば良いのかさっぱり分かりませんでした。
業者と色々相談していましたら、「費用対効果」という言葉を教えてもらいました。それは、「このくらいお金をかけると効果はこのくらいになる。」ということなのですが、「突き詰めて言えば、いくらお金をかけても限界があるということ」、つまり犯人が絶対燃やしてやるというつもりでガソリンをまけば、いくらお金をかけても意味をなさない、結局依頼主が「どの程度のところで納得するかということだ」という意味で使うのだそうです。確かにいくらお金をかけたって、最近のATM犯罪のようにブルドーザーで根こそぎ持っていくというような強硬手段に出られれば、何の意味もなさないですものね。
都会では、盗んだ人間が悪いのではなくて、取りやすいようなディスプレイをしている方が悪いそうです。さらに最近は、「取られないように」というよりはむしろ「ある程度取られることを前提に」商売をしているのだそうです。しかしそれでも田舎に行けば、監視カメラも警報装置もない無人の店に商品が並んでいて、お客が代金を箱の中に入れて勝手に持って帰るような仕組みが成り立っています。このことから考えてみると、「備え」も大切でしょうが、最後のところは「人間の心」なんだと思いませんか?
この放火騒ぎで私は、いくら「備え」をしても限界があるんだということと、結局大切なのは「人間の心」(を育てるということ)なんだということを学んだように思います。
●外からの「強制」ではなく内からの「めざめ」
「殺そうとしている人々を見るがいい。武器に頼ろうとするから恐怖が生じる。」(お釈迦さまの言葉『スッタニパータ』935)
「北風と太陽」という話をご存知でしょうか。
北風と太陽が競争して地上にいる人の上着を脱がそうとします。北風は、上着を吹き飛ばしてしまおうとビュービューと風を吹き付けましたが、強く吹き付ければ吹き付けるほど、脱がせるどころか逆効果になってしまって、その人は上着のボタンをしっかりとかけてしまいました。しかし太陽がぽかぽかと暖かい日差しを当てると、あっという間にその人は自分から上着をぬいでしまったという話です。
先にいいましたように私は、どれほど「備え」をしても「人間の心」の問題を抜きにしては何も解決しないと思います。私は、小泉首相の進める武力に基づく「備え」や「圧力」によって、北朝鮮が恐怖心を抱き、関係がどんどん悪化・緊張していると感じています。「信頼関係」を結ぶことの大切さを思うのであれば、「北風」のような「恐怖」を与える「武力」ではなく、「粘り強く対話を続けること」の方が大事なのはではないでしょうか。
また私は、あれほどフセインに忠誠を誓い、敬虔なイスラム教徒に見えたイラクの人々が、フセイン政権崩壊と同時に暴徒と化し、略奪を繰り返す姿を見て驚きました。権威や権力などで外側から押さえつけ強制しただけでは結局何も変わらない、粘り強い対話によって1人1人が内側からめざめて変わってゆくこと、そのことを通して誰1人切り捨てられることなく、社会全体が変わってゆくことの大切さを思います。気の遠くなるような話ですが、私は、これこそが仏教徒の非戦平和への取り組みだと思っています。
非戦平和を願う仏教徒の皆さん、有事法案が成立しても絶望してはいけません。たとえ1人でも、それが遥か遠い道のりであっても、対話を通じて、1人1人の心を大切にしながら、非戦平和の社会が実現してゆくよう、粘り強く取り組んでゆきましょう!
(この原稿は2006年に執筆されたものです)

